夏至。究極の繋がりを産む力を宿す。

何を得ても満ち足りないのは

果てしなく虚しくなるのは

生きていると感じられない理由は

誰か他者が承認してくれないからではなく、

愛してると言われないからではなく、

お金が稼げないからではなく、

結婚していないからではなく、

パートナーがいないからではなく、

子供に手がかかるからではなく、

親に理解がないからではなく、

居心地のよい環境がないからではなく、

適した仕事がないからではなく、

身体が弱いからではなく、

障害があるからではなく、

トラウマや傷を持っているからではなく、

たいせつな人が去ったからではなく、

孤独だからではなく、

自分が自分に嘘をついているからだ。

そしてもっといえば、

自分というものが産まれてこの方、

全くわからず、

自分のしたいことも考えたいことも

何を感じたいと思っているかすら

わかっていないからだ。

 

心臓がなぜ動いているのか私たちにはわからない。

大切な家族の心臓は止まり別れを迎えたのに、

なぜ私の心臓はいまも動いているのかわからない。

そしていつその心臓が止まり死ぬのかもわからない。

「生きている」がわからない。

いま、心臓が動き、意識があるから

生きているつもりだけど、

わたしと読んでいるこのカタチを

はっきりとみることは永遠にない。

わたしはなぜ生きているのか。

そもそも、本当に私たちは

生きているのだろうか。

何もセンチメンタルに浸るためにこんなことを書いているわけではなくて、

わたしがここにこうして生きていると

本当の意味で感じている人たちは

どれだけいるのだろうと思うのです。

 

それは逆に言えば、

生きているを五感で受け取っている人たちの美しさを

知っているからでもあります。

「生きている」が感じられなければ

人はその枯渇感を

自分ではないもので埋めようとします。

役割、肩書き、名声、名誉、業績、見た目としてのカタチ、大好きなあの人の愛情。

自分にしあわせな気分をくれる何かを

取り込もうとします。

そんな飾りのような自分ではない何かを自分と同一化させることは

おかしいとわかっている。

わたしはわたしを生きている!

絶対に。

そう言い切りたくなっても、

大切な誰かに好きだと言われたその一言で、

自分を大切な存在だと感じてしまう

私たちはそんな生き物。

好きじゃないと言われたその一言で

自分をどうしようもなく無力で惨めだと感じてしまうそんな生き物。

自分ではないものに

癒着し一体化しずっと離れたくない!と

思うそんな生き物。

何なら、

その美しさ、しあわせをくれるあなたを

一生留めておきたい。

わたしの中に。

だけど、

本当にわたしとあなたがいる意味は

そんなことのためではない。

それは愛ではない。

私たちが

生きていると感じるためには

本当に生きるためには

他者が必要です。

でもそれは

その人のコトバや見た目や肩書きや役割などを真似ることでも崇めることでも

取り込むことでもなく、

その人の精神であるいのちを

どれだけこのまなざしでみれるかということだし、

その人のまなざしをどれだけ純粋に受け止められる自分でいられるかということ。

他者のいのちを美しさをそこに通っている回路を、

自分の嘘偽りのないカタチに変換して

創造していくとき

私たちはこれ以上にないしあわせを感じる。

それは生そのもので愛そのもの。

その愛を産むまでの継続的な掘り下げが深ければ深いほど、

その後の「愛している」という表現は

人の心にまた本質的ないのちを与えるのだと思います。

 

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